masa日記~激突、そしてソンクラーン(水かけ祭り)
2010年 04月 18日
サメット島からバンコクに帰ってきて、数日の間に大きな変化があった。近所で集会を開いていたデモ隊と軍の衝突である。
衝突のあった日は朝から外は異常な状態だった。朝、目を覚ましたのはヘリコプターの音だった。ベランダに出てみると上空を3基ほど軍用ヘリが旋回していたのだ。何かあったのだろうかと思っているうちに、乾いた銃声のような音が少し遠くの方から何度も聞こえてきた。
しばらくは部屋の中で本を読んだり、ネットをしていたのだが昼過ぎくらいになると腹が減ってきた。今日はやばい事態になるかもしれないから昼と夜の食料を買ってこようと外に出てみると、アパートの目の前に赤シャツデモ隊がバリケードを築いていた。 更に二重三重とバリケードを築いていく赤シャツ 少し歩いて行くと向こうの方には軍がバリケードを築いていた。袋の鼠とはこの事か… いったん部屋に戻ってカミさんに報告し、避難するか食料を買ってアパートにこもるか検討した。とりあえず買い物に行って危険そうだったら避難することにして2人で出かける事にした。
一本だけある抜け道の路地を通って軍側の方に出てみると合計4車線の道は軍用車で埋めつくされていた。 軍は武装こそしているが、まだそれほど緊張した状態ではないように思えたので、急いで買い物をしてアパートに戻ることにした。
ほとんどの店が閉まっていたもののなんとか買い物を終えて帰る途中、突然目や鼻が痛み出し涙が出てくるではないか。向こうから来たタイ人が涙を流しながら「ガス! ガス!」と言って引き返すようにと教えてくれた。催涙ガスだった。とにかく急いでアパートに引き返した。
その後、ほどなくして軍とデモ隊の衝突が起こったのだった。その日の衝突で日本人カメラマン含めて20人以上もの死者が出た。そして今もなお集中治療室では多くの怪我人が治療しているという。
この日は、安全と思っていた外国人旅行者の聖地とも言われているカオサン近くでも死者が出て、多くの外国人たちが目の前でこの悲劇を目撃したようであった。
多くの犠牲者が出たため、その日遅く、軍は撤退した。街は異様な雰囲気を残しながらも一時の平和が訪れたようであった。しかし前日の戦闘の爪痕が街にははっきりと残されていた。 民主記念塔の近くでは軍の装甲車が何台も乗っ取られ破壊されていた。
この異常な雰囲気の中、タイの正月ソンクラーンの1日目に突入した。本当はチェンマイに行く予定だったのだが一緒に行くはずの知り合いの都合で行けなくなってしまった。
近所はひっそりとして誰もが楽しめない雰囲気だった。赤シャツのデモ隊の、ごくわずかな人たちだけが申し訳なさそうに水を掛けていた。
しかしカオサン近辺だけは水掛け祭りをやっていた、が、やはり少し遠慮がちに見えた。
翌日、ソンクラーン2日目。
なんとこの日からデモ隊が近所のパンファー橋の集会場から伊勢丹があるチットロムの方に移動を始めたのだった。
一か月以上にわたり騒音に悩まされ続け、夜は眠れず、赤シャツを避けて近場に小旅行に出かけたりもした我々としては、新たな集会エリアの人には申し訳ないが正直嬉しかった。
この日、そして最終日の3日目は今までの鬱憤を晴らすように近所では水掛け祭りに熱が入った。カオサンに行くと欧米人もタイ人も入り乱れての水掛け祭りだった。 夜は近所の運送会社の人たちと酒を飲みながら道行くバイクやトゥクトゥクなどに容赦なく水をぶっかけて大盛り上がり。 夜の12時くらいに帰ろうとしたら他の場所でも知り合いに会って再び飲めや掛けろの大騒ぎ。
やっぱりタイは明るい方がタイらしい。微笑みの国であってほしいと願わずにはいられない今日この頃です。
衝突のあった日は朝から外は異常な状態だった。朝、目を覚ましたのはヘリコプターの音だった。ベランダに出てみると上空を3基ほど軍用ヘリが旋回していたのだ。何かあったのだろうかと思っているうちに、乾いた銃声のような音が少し遠くの方から何度も聞こえてきた。
しばらくは部屋の中で本を読んだり、ネットをしていたのだが昼過ぎくらいになると腹が減ってきた。今日はやばい事態になるかもしれないから昼と夜の食料を買ってこようと外に出てみると、アパートの目の前に赤シャツデモ隊がバリケードを築いていた。
一本だけある抜け道の路地を通って軍側の方に出てみると合計4車線の道は軍用車で埋めつくされていた。
ほとんどの店が閉まっていたもののなんとか買い物を終えて帰る途中、突然目や鼻が痛み出し涙が出てくるではないか。向こうから来たタイ人が涙を流しながら「ガス! ガス!」と言って引き返すようにと教えてくれた。催涙ガスだった。とにかく急いでアパートに引き返した。
その後、ほどなくして軍とデモ隊の衝突が起こったのだった。その日の衝突で日本人カメラマン含めて20人以上もの死者が出た。そして今もなお集中治療室では多くの怪我人が治療しているという。
この日は、安全と思っていた外国人旅行者の聖地とも言われているカオサン近くでも死者が出て、多くの外国人たちが目の前でこの悲劇を目撃したようであった。
多くの犠牲者が出たため、その日遅く、軍は撤退した。街は異様な雰囲気を残しながらも一時の平和が訪れたようであった。しかし前日の戦闘の爪痕が街にははっきりと残されていた。
この異常な雰囲気の中、タイの正月ソンクラーンの1日目に突入した。本当はチェンマイに行く予定だったのだが一緒に行くはずの知り合いの都合で行けなくなってしまった。
近所はひっそりとして誰もが楽しめない雰囲気だった。赤シャツのデモ隊の、ごくわずかな人たちだけが申し訳なさそうに水を掛けていた。
しかしカオサン近辺だけは水掛け祭りをやっていた、が、やはり少し遠慮がちに見えた。
翌日、ソンクラーン2日目。
なんとこの日からデモ隊が近所のパンファー橋の集会場から伊勢丹があるチットロムの方に移動を始めたのだった。
一か月以上にわたり騒音に悩まされ続け、夜は眠れず、赤シャツを避けて近場に小旅行に出かけたりもした我々としては、新たな集会エリアの人には申し訳ないが正直嬉しかった。
この日、そして最終日の3日目は今までの鬱憤を晴らすように近所では水掛け祭りに熱が入った。カオサンに行くと欧米人もタイ人も入り乱れての水掛け祭りだった。
やっぱりタイは明るい方がタイらしい。微笑みの国であってほしいと願わずにはいられない今日この頃です。
by yatzi | 2010-04-18 03:13 | タイ